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平松八千代さんインタビュー Vol.3

平松八千代さん 「ヤッチーの “I am Travelling Soul”」も好評連載中! インタビュー第3弾です。



インタビューに応じる平松八千代さん 褒めすぎ

■ギターは習われたんですか?

いいえ。習っていませんね、全然。わたし、今習いたいんですけどねー。誰か教えてくれへんかな?

■6月のフルバンドでのライブのときに、平松さんアコギ弾いていましたよね。けっこう持ってるだけじゃん、というアーティストも多いのに、ちゃんと演奏のひとつとして成立していたのがカッコよかったですよね。

ホントですかあ!? わたしね、あのメンバーだから「弾かなくてもいいんちゃうか」ってのがあったんですよ。めげそうになるんですよ。「くっそー」って(笑)。だってうまいんだもん(泣)。
でもわたしが弾かなきゃ意味がない、と思ってはいるんです。バンドのみんなとやればやるほど、「わたし下手くそやなあ」って思うんですよ。ライブ前には、「今度のライブどうしよ……どうしよ、どうしよ」って思うもん。
でもそう言ってもらえるのはうれしいんですよ(笑)。あのライブレポートのなかで、ギターを褒めてくれていたでしょ。すっごくうれしくて。でも冷静になって、「褒めすぎやわ」って……。

(一同爆笑)

ギターのこと言われたら「えっとー」(頭をかいて)ぽりぽりって感じですわ。

ボーカルに抜擢(ばってき)され

■高校生のときのバンドは、いくつまで続けたんですか?

それは二十歳ころまで続きました。
その後は、男の人もいるポップなバンドをやっていたんですよ。インディーズデビュー寸前まで行って、なぜだかポシャってしまったんです。それから1年くらい、なんにもしていない時期があって。でも、また音楽をやりたくなって。
大阪でバンドエクスプロージョンっていうコンテストがあったんですが、それに、にわかバンドを組んで出たんです。キャバレーで演奏している人とか、いわゆるプロの人ばっかり。そこには後のだんな(平松清氏)もいたんですが。普通はアマチュアバンドが出る催しなのにね(笑)。そしたら準優勝してしまってテレビに出たりして。
そんときは歌だけで、もう一人の女の子とツインボーカルだったんです。

で、その後やっぱりきちんと音楽を続けようということで、ちゃんとバンドを組んだのが「LANPA」の原型になったんです。
そこのギターの子に「八千代ちゃんカッティングがうまいから、ギターもおやりよ」って言われて、ギターとコーラスを担当しました。ボーカルはうちのだんなが担当してたのですが、好評とはいえなかったんです。あんまり上手じゃなかったんですね。
そこでコーラスをやっていた私に、「1回フロント立ってみいや」って話がバンド内で浮上して。それでギターを持たずにフロントに立ってみたら、ウケがよかったんです。

リーダーでベース担当の子と付き合っていた女の子が、東京の代々木のチョコレートシティのPAをやっていて、「そこに出られるよ」って話がきたんです。「それはぜひ出よう」となったんですが、いかんせんお客さんを呼べない。こっちは大阪だからね。対バンで出てくれるバンドの集客に頼らざるを得ないわけですよ。
そのころチマタでは「いか天ブーム」で、この番組に出たらきっと人が集まるかもしれないと。でも人気番組なので、応募数も多く「出演できるかどうかわからん」って話だったんですよ。でも、応募したら「すぐ出てください」って言われたんです。それで出演して、とんとんとデビューということになったんです。もう番組の終盤のころだったんですが、そのころ大阪では放送されていなかったんですよ(笑)。




インタビューに応じる平松八千代さん 「歌」はLANPAのとき、鍛えられました

■長いこと音楽活動を続けて、それでプロデビュー、ということになるんですね。

そうなんです。だからデビュー自体は遅かったんですね。26歳くらいになっていたかな。2年契約でアルバム2枚という契約で、GONTITIさんと同じ事務所のヒップランドミュージックに所属していたんです。

■LANPAのアルバム、全部持っていますよ。

えー! そうなんですか? アルバムは確か3枚出したんですよ。わたし、個人的には2枚目(「世界の秘密」)が好きなんですよ。岡田徹さんプロデュースの、ちょっと変わった感じのね。

■LANPAのイメージと、今の平松さんが重ならないんです。

そうですねー。LANPAのときは、もうほんまに、フロントに立つつもりのない人間が立っている状態だから、実際には右も左も分からない状態でやっているんですが、でもそんなこと知らない人たちは、「あの子が全部仕切ってるんだ」って思ったみたいなんですよ。でも実際は、だんなが全部やってくれていたんです。

歌の指導も厳しかったですよー。歌えるんだけど、自分が作った曲歌ってもらうわけだから家に帰ってからも、もめたりして……。ボーカルはバンドの看板やけど、歌も正式に習ったわけではなかったし。基本だけは大阪のボーカリストの女の子に教わりましたが、その後はだんなに……。あれでだいぶ鍛えられましたね。

■ご主人が歌の先生ですね。

そうですね。もめたけど、ケンカみたいにはならなかったですね。この人はすごい才能を持ってるって、ずうっと思っていたからなんですね。曲も作れるし、ギターも弾けるし、コンピュータのプログラムもできるし……、すごいなあって。今でもそう思っているし。
わたし自分のなかで、かっちり上下関係作ってしまうタイプなので、「この人はもう上」って(笑)。口答えしましたけど、「なら、あんた歌いなあー」って。それ言ったら終わりやろ、みたいな(笑)。
やさしいんですけど、「ここは譲れん」って、職人肌。




■でもそういうこだわりがないとね。それはどのくらいの期間だったんですか?

LANPAをやっている間ずうっとですね。教えてもらわないとできない、っていう感じでした。

LANPAを始めたころに、ケイト・ブッシュとサラ・マクラクランの音楽に出会ったんですね。ケイト・ブッシュは「すごい!」と思ったんです。
サラはLANPAの初めてのアルバムを作るときに、スタジオのスタッフの方が持っていて、スピーカーの音の調整のときにかけていたんですね。「これだれーー!?」って。ものすごいはまりましたね。彼女のボーカルは、わたしのなかでは、カレン・カーペンターと同じくらい、ごっつい大事なボーカリストですね。ギターはうまいし、自分で全部するし、頭はいいし。

■アメリカでは絶大な人気を誇る彼女ですが、日本ではあまりメジャーな存在ではないですよね。

そうですね。あのね、わたしはファーストアルバムが一番好きなんですよ。あとはジョニ・ミッチェルの「シャドウズ・アンド・ライト」。ジャコ(・パストリアス)とか、パット・メセニーが参加していて。これがすっごいんですよ。あの人のギター、変則チューニングの嵐でしょ。「なに弾いてんねん」って(笑)。




インタビューに応じる平松八千代さん



すごい縁があったおかげ

■LANPAは何年くらい続けたんですか?

2年くらいです。
最後にはLANPAも二人になっちゃって、エッグマンとかブッキングして、ライブだけやっていたんですよ。大阪に帰ってライブしたり。サポートでお手伝いしてくれたミュージシャンに声をかけて、また手伝っていただいたりしながらね。バイトしながらそういう活動を2年くらいしたかな。
その間にバンド名を「NAP ON MONDAY(ナップ・オン・マンデイ)」に変えて、インディーズからアルバムを出したんです。あれはやっと自分のボーカルのスタイルが決まって、一歩前に進めたかな、という仕上がりのアルバムなんです。
思ったように歌えなくて、けっこう大変な思いをしたんですよ。それを作っているときにSOYの話が来たので、同時進行でもいいかなと思って、引き受けたんです。SOYでアメリカに行っちゃって、すっごいミュージシャンのセッションを聴いて「どっへ〜」って。

(一同笑)

「うっわー、ジム・ケルトナーや! カッコいい」。映画俳優みたいだったんです。佐橋(佳幸)さん、小倉(博和)さんに会えたおかげです。昔「いか天」に出ていたわたしを覚えていてくれた社長のおかげなんですけどね。
そのころはもう疲れ果てちゃって、「もう大阪に帰ろう」と思っていたころだったので、なんかすごい縁なんですね


---「いか天」出身のバンドで今でも活躍しているのはビギンとリトル・クリーチャーズくらいでしょうか。フライングキッズ、Blankey Jet City、たま、そうそうたる顔ぶれでした。そんななかで苦悩しながらがんばったヤッチー! 次回もどうぞお楽しみに!



●撮影・文/Yahoo!オークション

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