ギターラボ トップ > 森岡賢さん > 森岡賢さんインタビュー Vol.1

森岡賢さんインタビュー Vol.1

森岡賢さん 2016年6月3日。心不全のため49歳という若さでお亡くなりになった森岡賢さん。今から9年前ギターラボに登場していただきました。インタビューで語ってくださった「虚像」。アーティストとしての自分と本当の自分。今でもそのときの表情がよみがえってきます。ここにご冥福をお祈りし、再掲させていただきます。なお、当時撮影した写真のクオリティーの低さは森岡さん承認済みということでご容赦ください。

【2007年2月15日初出】
元SOFT BALLETのメンバーでキーボード・プレイヤーの森岡賢さんがギターラボに初登場! 森岡さんのヒストリーと、音楽に取り組む姿勢についてたっぷりお話をうかがったインタビュー第1弾! どうぞお楽しみください。



森岡賢さん恵まれた環境

■私が小学生のときに初めて買ってもらったレコードが、加山雄三さんの「君といつまでも」なんです。

ああ、うちの父の。(編集部注:森岡さんの父、森岡賢一郎さんはほかにも「水色の恋/天地真理」「瀬戸の花嫁/小柳ルミ子」「二人でお酒を/梓みちよ」「長崎は今日も雨だった/内山田洋とクール・ファイブ」など、昭和のヒット曲の多くに関わった音楽家です)

■そうなんです。で、気がつけば森岡賢一郎さんの関わったレコードや、自分が好きな曲の多かったこと。小学生でいながら存じあげていましたから、SOFT BALLETがデビューしたころ、ひょっとしてご子息? と思ったんです。


バカ息子かもしれませんけどね(笑)。

■いえいえ。やはりそういうご家庭ですから、森岡さんが生まれた瞬間から、そこに音楽があったという環境だったんですね?

そうなんです。最初に行ったコンサートが幼稚園のときだったか、トム・ジョーンズだったんですね。

■はあ、ませてますねー。

(笑)ませていますよね。だから僕、なめていたんですよ、芸能界っていうか業界を(笑)。だって、小学生のころから家に小柳ルミ子さんとか天地真理さんとかが出入りしていたんですもの。ものおじすることがないんですよね。逆にいうと感謝の気持ちもなかったから......(苦笑)。
話が飛んじゃうんですが、SOFT BALLETが解散したころ、布袋(寅泰)さんに呼ばれたことがあったんですね。ご自宅にスタジオを作って、そこで曲作りなどをしていらしたんですよ。そのときにすごく失礼なんですが、スタジオを見て、「まあよくここまでがんばりましたね」って言ったら、すごく怒られまして......(笑)。ふつうなら、きっとそこで「うわー!」ってなっちゃうのでしょうけれど、生まれたときから自宅がそういう環境ですから(笑)。
でも、1か月だけですが一緒にお仕事させていただきました。父の家にいるようでとても楽しかったと同時に、とても勉強になりました。

■そういう環境にいらしたので、驚きでもなんでもなかったんですね。

そうなんです。でも、唯一コンプレックス(あこがれ)を感じたのが、土屋昌巳さんとYMOでした。その当時、あたりまえのようにかかっていた音楽とはまったく違っていましたからね。その後コンプレックス(あこがれ)からリスペクトにかわりましたけれど。小学5年生のころです。「なんじゃこりゃ?」という感じでしたよ(笑)。

■小学5年生でそういう音楽に敏感に反応できたっていうのも、やはり環境なんでしょうね。

そうですね。だからやっぱり感謝しなくちゃいけないですよね。



森岡賢さんシンセサイザーがおもちゃ

■森岡さんご自身が「音楽をやってみたい」と思われたのはいつごろですか?

えっと、幼稚園か小学1年のころからピアノを無理やり習わされていて、まあほんとにほんとに嫌いで。プロレスラーになりたいと思っていましたが(笑)。

■ええ!?

(一同笑)

それか、野球選手になりたいって思っていたのですが(笑)、たまたま父が仕事上の理由で、ストリングスシミュレータのSolinaというシンセサイザーとRolandのSYSTEM-100というシンセサイザーを購入したんです。富田勲さんの作品が大流行した後なんですけど。
実際には、父はジャズの世代なので、「シンセは自分の領域じゃない」ということでお弟子さんたちに使わせていたんです。ほとんど使われることもなく遊んでいる状態だったので、僕がそれを使って遊ぶようになったんです。YMOが出てくるちょっと前かな......? ELOとかMとかが好きで、同じような音を出して一日中遊んでいたんですね。
鍵盤を押したら「ビヨン」って鳴って、それだけでおもしろいじゃないですか(笑)。ちょっとフィルターなどをいじると音色が変わるし、「ああ、気持ちいい」って。で、そのうちそれを録音したくなってくるんですね。
当時、ウチには8トラックのマルチテープレコーダーはなかったんですが、ダビングが可能なカセットレコーダーはありまして。そこにマイクを入れて多重録音をするんです。TEAC244(4トラック方式のマルチトラックレコーダー)が出る前ですね。それでYMOやJAPANをマネして同じ音を出したりして。

当時、僕はシーケンサーを持っていなかったので、リズムボックスのトリガーでシークエンスさせるという方法で音を自動的に鳴らしながらピアノの音をマイクを立ててとったりとか、いろいろやりましたね。
で、中学2年か3年のころにデモテープを作ったんですよ。何回ダビングしたかわからないので、音はぐしゃぐしゃ、シャバシャバ(笑)。まあ、それが世に出ることはなかったんですけど(笑)。一応とっておいたんですね。そんなものが2?3曲ほどあったんです。そのトラックを高校時代に知り合った藤井麻輝に聴かせたら「おお、これはすごい!」と。今思えばノイズになるのか(笑)。よくいえばリズムの粗いアシッドハウスみたいな感じのものになるのかな? とにかく音楽的ともいえるようないえないようなものだったのですが、なぜか彼がそれを聴いて僕をリスペクトしてくれて、意気投合した感じでしたね。

ドラムも、その後TEAC244を使って、たとえばスネアをお風呂場でたたいてEQ(イコライザ)を強めにして何度も重ねて録音していくうちに、ハンドクラップみたいになったりね。当時、ハンドクラップ音を出せる機器ってリンドラムとかごく一部に限られていたんですよ。しかも高価で手が出ない(笑)。だから自力でそういうことをけっこうやっていたんですよね。



森岡賢さん



森岡賢さん音ネタ作りに夢中に

■それはすごいですね。

もちろんアマチュアレベルではありますけど、高校1年のころはそんなことをしていました。あとピアノの音はマイクの位置でとれ方が違うことに気づいて、あーでもないこーでもない、ってやっていましたね。無意識にではありますけど(笑)。ひょっとしたらそういうことに一番はまった時期かもしれません(笑)。
たぶん、今でこそ安価でいろいろな音を作ることが可能になりましたが、当時はとにかく高価でしょ。億単位する器材もありましたからね。到底手に入るわけがない。で、まあ誤解のないようにいうと、ほかの人よりちょっとだけぼんぼん(笑)だったので、たとえばRolandのJupiter-4やJupiter-6はあったので、自宅に。それを工夫しながらいじっていました。
その後、ENSONIQのMirageというサンプリングキーボードを購入してあれこれサウンドを試行錯誤していましたが、その後、大学時代にAKAIのS1000という高性能かつローコストのサンプリングマシンが出て、劇的にサウンドの幅が広がったんです。
という感じでデビュー前には、すでにその後の音ネタは作っていた気がします。

■ピアノはその後も習い続けたのですか?

ええ。いちおう高校はピアノ科専攻で、大学は作曲科専攻だったんですが、プロとして仕事をするということのほうに関心が強くなり、中退してしまいました。今ではある意味、とても後悔しています。
両親は僕に対してもっと違う未来を描いていたようなのですが、僕が中学時代にデヴィッド・ボウイーとかロックミュージックに目覚めてしまったので、髪の毛を赤く染めたり、化粧をしたり(笑)、ナイトクラブにあこがれたりと......(笑)。当然勉強はおろそかになる。で、成績は下がる(笑)。結局のところ残っていたのはピアノのみ。音大に行かざるを得なかったんです(笑)。
ピアノの練習もショパンとかラベルは気持ちいいから好きなんですけど、ツェルニーとか練習曲を弾いていると、なんかこうイライラしちゃって譜面をビリッとしちゃいたくなることも多々ありつつ......(笑)。



森岡賢さんパフォーマンスに目ざめる

■音楽で生きていこうと決めたのは、いつごろですか?

音楽でというより、むしろロックスターになりたかったんですよ。
もっと浮ついたものでしたね(笑)。クイーンのフレディ・マーキュリーのステージを見てすごくあこがれましたし、もちろんデヴィッド・ボウイーもそうですし。
音楽家というよりは、ステージでどんな形でカッコよく見せるか、観衆をわかせるか、ということに関心がありましたね。それが多分、ステージ上のパフォーマンスにつながったのだと思いますが。
とはいえ、SOFT BALLETも最初はYMOやクラフトワークのような形(スタイル)でライブをしていたんです。ストイックに、シンセを微動だにせずに演奏するというような(笑)。ところがお客さんが全然増えないんです。「おかしいなー。音はいいはずなんだけどなあ?」(笑)と。当時、Yohji YamamotoやTOKIO KUMAGAI、ジャンポール・ゴルチエなんかがはやっていたのですが、それらをカッコよく着てストイックにね。まあ、今それを見るとまるでホストみたいでしたけれど(笑)。

(一同笑)

でもお客さんが全然増えない......。うーん、どうしようと。
YMOの方々と直接知り合いではなかったんですが、その周囲の方々とバックバンドのお仕事をさせていただける機会が多かったんです。戸川純さん(ヤプーズ)、ZABADAK、アーバンダンス、遊佐未森さんといった方々ですね。そのときのキーボードスタイルにしても、やはりYMOのスタイルなんですね。でも何か違うと。僕のなかで何かを壊したくなってきたときに、三上博史さんのバックバンドをやらせていただくことになり、そこで自分をみつけることができたんです。
三上さんのお知り合いで、ツアーを一緒に周ったニコラスさんという元ロイヤルバレエ団のプリンスと仲良くなったんです。僕はもともと踊りは大好きで、「サタデー・ナイト・フィーバー」もポピュラー音楽を聴くきっかけのひとつだったんです。

SOFT BALLETでも少し自分で振付けて踊りだしていたんですが、お客さんと共有できることで、たとえば合図ひとつでお客さんと同じ振り付けで踊ることを考えたりして......。それは僕も楽しいし、お客さんも楽しんでくれるでしょ。最初は照れもあって、試行錯誤だったのですが。その渦中に三上さんのバンドに誘われたんです。
当時、三上さんのやりたかったことは、寺山修司さんの現代版みたいなことで、メンバーそれぞれに光が当たるやり方。だから人のマネではいけないんですね。その当時のメンバーはそれぞれ個性的な方ばかりで、マネっこをしている僕は認めてもらえず、悶々(もんもん)としていたんです。

試行錯誤しているうちに「ああ、自分が感じるままにやればいいんだ」って気がついてからは清水の舞台から飛び降りるくらいの覚悟で、ステージの上で踊ったりしたんです。ピアノもディスコードでもガーンッと音を出したり、フレーズもほかの方に遠慮していたんですが、それをやめて好きなような弾いたりしたんですよ。そしたら三上さんをはじめメンバーの方々が認めてくれるようになって、アレンジまでやらせていただくようになったんです。それがまた好評で。それが自信につながりましたね。
恥ずかしいとかそういうことは全部捨てて。髪も短くしてプラチナブロンドに染めてみたり、男だか女だかわからないようなタイツはいてみたり。「もうマネっこはやめた!」って自分をドンドン出していったら、お客さんも増えていったんですよ。目上のミュージシャンの方には本当にかわいがっていただきましたよ。そこに行きつくまでは、3?4年、本当に悶々としていましたけれど......。



森岡賢さん



森岡賢さんSOFT BALLET

YMOの後を追っていろいろなバンドやユニットが出てきたと思うのですが、ほとんど続かなかったような気がします。途中でぽしゃっちゃうパターンがほとんどのような。
で、BOOWYとかギターバンドが出てきた。そんななか、僕たちのスタイルはライブハウスでもうざがられましたよ(苦笑)。キーボードを何台も持ち込むわけですから(笑)。それでも負けずにがんばって。それと同時進行でサポートをやらせていただいたりして。その後、ステージで踊ることに躊躇(ちゅうちょ)がなくなったら、動員増はあっという間でした。5人から200人、200人から2,000人と。

■ほかのメンバーは、ステージングに関しては了解だったのですか?

デビュー当時のその辺のことは、おおむね僕が担当だったんです。僕がほかのお仕事をさせていただくことで、音楽の作り方なども学べるわけですよね。そういうノウハウを、バンドのカラーで、いかにポピュラリティーな方向へプロデュースできるかってことを担当していましたね。根底に流れる音楽的なものは3人とも共有していましたし、インダストリアルなものは藤井が研究し、極めていましたから。それを僕がポピュラーなほうに持っていったと思っています。



【森岡賢語録その1】

●「007シリーズ」のサントラとか、「メリー・ポピンズ」やフランク・シナトラが流れている場所って、僕にとっては家にいるような感じがするんですよね。

●実は今、ラテンにひかれているんですよ。僕はピアノを演奏しますが、ラテンのピアノってすごいんです。何より練習にもなりますしね。

●バンドブームってありましたよね。(編集部注:1980年代後半から1990年代前半にかけて起こったロックバンドの一大ブーム)僕らのやっていたSOFT BALLET、BOOWY、BUCK TICK、そしてLUNA SEAがそのあたりだと思うのですが。その後、日本国内はヒップホップなどにシーンが移り変わり、実は現在ではビジュアル系といわれているバンドのいくつかは海外でツアーなどをして成功している例が多いようです。
なぜかメジャー(レーベル)はそういう音楽を扱いたがらない傾向があるようで、僕の知るいくつかのバンドやユニットは「My Space」や「mixi」などを利用して自分たちで海外のプロモーターとアポをとったりしてるんですよ。
そうした彼らを見ていると、何かのきっかけで日本においてメジャーとインディーズがひっくり返る可能性も十分感じます。その辺の音楽を求めている人は多いですからね。YOSHIKI君(X JAPAN)たちが新たに何か始めるようなことも耳にしますが、フレッシュさという点では若い世代にはかなわないんじゃないかな? とも思えたりもしますね。



---昭和を代表する音楽家を父に持ち、幼いころからそこに音楽があった森岡さん。恵まれた環境のなかですくすく、とおもいきや、人生そう甘いものじゃないんですね。続きをお楽しみに!



●文、撮影:Yahoo!オークション






森岡賢さんオフィシャルサイト



読者コメント(4件のコメントがあります)

今朝 ソフトバレエの夢を見てなぜか気になったので
「愛と平和」のCDを聞きながらHPで探して・・
はじめて 書き込みさせていただきます。

もう10年以上ファンです。
ソフトバレエがきっかけでバンドをはじめた経験もあります。森岡さんを単独で福岡の某インドカレー屋さんでご一緒したのがきっかけで、ソフトバレエを知るきっかけとなったのです。{おひとりでも 不思議な雰囲気でした} 
髪は真っ白がお似合いですよ〜〜(*^。^*)
あれは、森岡さんしか 似合いません!”

投稿者:kaori | 投稿日:2008年7月 9日 15:23

kenさん!☆ご無沙汰です!(笑) 突然行方不明に
なられたと思ったら、こんなとこにいらっしゃって(笑)
これからはオフィシャルサイトの方、楽しみにしてますね♪

青い部屋でまたお会いしたいです☆

投稿者:にん | 投稿日:2007年4月12日 23:09

なみさん
コメントありがとうございます! 続きもどうぞお楽しみに!

投稿者:ギターラボ編集部 | 投稿日:2007年2月22日 20:06

はじめまして。
楽しく記事を拝見させていただきました。
知人にこちらを教えてもらえてよかったです!
久々に森岡さんのインタビュー記事を読めてとても
嬉しかったです。ありがとうございます!!
続きも楽しみにしています。

投稿者:なみ | 投稿日:2007年2月22日 18:36

登場アーティスト

キーワードで検索!

キーワード : カテゴリ指定 :    
検索オプション